楽園の向こう側 [1]










その日、最も東に位置する慶で日が昇りきらんとする頃、梧桐宮で鳳が崩御を啼いた。
南に位置する一国が、ひそやかにその幕を引いたのだと。
それを聞き届けた官が重々しい気持ちで外へと目を背けると、昇りゆく太陽は燃えるような陽の赤さを、空の中に失いつつあった。
官はそれになぜか救われた気がして、再び鳳に目を向けた。
















控えめに断りを述べる女性の声に、陽子は椅子から腰をあげ、自ら堂扉へと向かった。
それは、よく知る人の声だったので。
けれど仕事の最中に、彼女がこうして自分を訪ねてくるのは、とても珍しいことだった。
衝立の影にまるで隠れるようにして、その人はひっそりと立っていた。 彼女が纏う空気の重々しさに、陽子は知らず息を呑み込んだ。
「ごめんなさい、邪魔をして」
伏せ目がちに謝罪を口にする祥瓊に、陽子は緩やかに用向きを訊ねた。 彼女は一度戸惑ったようにふっと口を噤み、ややあって、落ち着いた声で言った。
「台輔がどこにいらっしゃるか、あなたは知らないかしらと思って……」
「……景麒が? どうしたの、なぜ?」
純粋に不思議に思い、陽子は逆に問い返した。 同時に、彼の身に何か起こったのだろうかと、声に緊張が走る。 祥瓊はすぐにそれに気付いて、そうじゃないの、と呟いた。
「誰も、台輔がどこにいらっしゃるのか知らないのよ。珍しいというか、変でしょう? やっぱり気になさっているのかしらって……」
ああ、と陽子は得心が行って低く呻いた。




先日、遠い南の一国の崩御を聞いた。
王は自ら命を絶ち、あとには失道で病んだ麒麟が残されたのだと、隣国の麒麟が教えてくれた。
新たな麒麟の成長を待ち、王が選ばれるのとは比べものにならぬほど早く、民草は新たな王を得るだろう。
誰しも、己の身に降りかかる災厄には敏感だった。 国を荒らした王の、最後で最良の英断だったと誰もが思っただろう。 麒麟は光であり、すべての民の希望の具現者であるから。
彼らを象徴として捉えるなら、それはとても正しいことだった。




「ありがとう祥瓊……後のことは、私にまかせてくれる?」
そっと細い肩に手を置くと、祥瓊は泣くのをこらえるような顔で、無理に微笑んで見せた。
それに陽子はつられそうになりながら、救われた気持ちになる。
ここにある気持ちも、向けられた気持ちも、とても温かくて優しいものだったから。
「ごめんなさい、おせっかいだってわかってるの、でも……」
「そんなことない。あれは自分の気持ちを吐露することが苦手だから、すぐに抱え込むんだ。そんなに強くもないくせに」
よくわかってるのね、と祥瓊は小さく吹き出した。
陽子はうんと頷いて、告げる。
私たちは、そんなところばかりよく似ているようだから、と。
















降り注ぐ光が急に強さを増し、景麒は思わず目を閉じた。
陽が傾いて、自らの立つ場所に光が差し込んできたのだ。 眩しさにくらみ、景麒は鑑賞用に置かれた手近な岩に腰を落とした。
ゆるやかな午後の日射しは玻璃を通し、幾分やわらいだものになっていた。それでも今はその明るさに、身を苛まれるような気がした。
詮無いことだとわかっている。それでも、割り切ることができない己の弱さに辟易した。
日を追うごとに気持ちは形を持ち、胸を圧するようにせきあぐる。
今の季節にはない花に囲まれ、景麒は今更ながらその薫りに気付くと急に息苦しさを憶えた。
暖かい温室の中は、まとわりつくように濃密で甘い、花の薫りが満ちている。
それに、どうしても先に崩れ去った一国を思わずにはいられなかった。こんなにも考えずにはいられない理由は、わかりきっている。
だから思わずにはいられない、己には手に取るようにわかるから。
けれどそれ以上、何ができるというのだろう。




花の薫りが、甘やかに揺らめく。
群れて飛ぶ蝶がはばたく度に、背に載せた薫りが景麒のすぐ傍で強く立ちのぼった。
ふいにその羽音が慌ただしく変わり、遠くなる。 人の気配を察した蝶は、空高く舞い上がった。
それを目で追うことはせず、景麒は咲き乱れる花の奥を、食い入るように見つめた。
やがて白い花の奥にあざやかな赤が混じって、その形を景麒の前にあらわにする。
「見つけた」
色づいた唇が、囁きを洩らした。 目の覚めるような赤い髪を持つ人は、その眸をこちらへと向けた。
眩しさに目を細めながら、景麒は温かいその気配に、気持ちが解けていくのを感じずにはいられなかった。
陽子は花の薫りを裾に引いて歩き、景麒の前に立ち止まった。
景麒が岩に腰かけているために視線は陽子の方が高く、自然と彼女を見上げる形になる。
「よく、おわかりに……どうかなさいましたか?」
「別に何もないよ。ただ、どこにいるのかと思って探してみただけだ。思ったよりすぐに見つかったんで、拍子抜けした」
あっさりと応えて微笑う陽子に、景麒は内心驚きを感じていた。ここにいる間、誰にも会うことなどないと思っていたからだ。むしろそれを望み、ここへ足を向けたのだとも言えた。
「王気のようなものがなくても、お前がどこにいるかくらい、私にはわかるよ」
胸中を見透かされ、景麒は驚いて肩をふるわせた。その反応を見やって、陽子は笑みを消した。




蝶の羽音が、戻ってくる。
静寂の中で、かろやかに空を泳ぐ気配を、肌の上に感じた。
「とても簡単なことだよ。お前を知っていれば、少し推理するだけのことだもの。その時の出来事や季節、好むもの、好まないもの、心の在りよう……そんなものに気を配って、少し考えればちゃんとわかるものなんだよ、親しい人間にはね。麒麟は、不便だね」
陽子は小さく、寂しげな笑みを唇に浮かべる。
「そうでしょうか……私には、必要なものです」
「私がこうしてお前にたどり着けたように、今なら王気がなくても私を探すことができると思うけれど」
「それでも、考えたくもありません」
毅然とした表情に、陽子は軽く唇を噛んだ。 同時に、彼の心をうかがい知る。祥瓊は優しい、そして鋭い。
穏やかな光の中で感情を殺そうとする景麒は、どこか作り物めいていた。
春の日差しのように暖かな空気に抱かれ、花の薫りの満ちるこの場所にまるで不自然に、その姿が悲しい。
花びらが散るように、蝶たちは空に遊ぶ。 二人を分かつ空間を、ゆるやかに行き過ぎて行った。
「私は、ここにいる。それが、わかるか?」
その言葉に、景麒は陽子を直視した。これきり、失ってしまうもののように。
向き合った眸を覗き込み、彼の負う傷の深さに陽子は圧倒されそうになる。
夜の海を覗き込んだ時のようにそれに飲まれかけながらも、かろうじて踏みとどまる。




こんなに澄んだままで、人は生きることなどできない。
何もかもを忘れえぬ記憶としてすべてを刻んだまま生きられるように、人は、創られてはいない。
けれど目交いの人は、そうするように創られている。
人よりもずっと、澄んだ心を持ったままで。




「可哀想に」
ごく自然に、哀れみの言葉が口をついて出た。 彼の眼差しは揺るぐことがなく、見失うまいとでもするように、鋭く向けられている。
陽子は両手をのばし、手のひらの中に、景麒の顔を包み込む。
そのまま視線を近くすると、赤い髪が光を遮断するように流れ、景麒の上に仄暗い陰が落ちた。
そっと額を合わせると、わずかに身じろぎしたその緊張が陽子にも伝えられる。
こうして触れても、痛みを分かつことは出来ない。
粉々に砕けた陶器の欠片のように、ただ、自分という存在の在り処を伝えるだけ。
流れた髪は天蓋のようにすべてをその中に蔽っている。 額を離すと、頬を包んだ手を、景麒が掴んだ。
うすく目を開き、陽子は再び目蓋を閉じると景麒の唇にそっと、自らの唇を与えた。
少し冷たい唇が、一瞬息を飲むのがわかった。
凍えた心を溶かす熱を、与える。
陽子の手を掴んだ手はほどかれて、その背中をかき抱いた。




景麒の唇を冷たいと感じなくなる頃には口接けは深まって、背中に回された手は戒めのように強く、陽子はほとんど与えられない息継ぎの度に喘ぐような吐息を洩らした。
躰の芯が揺らぐような眩暈に襲われて、彼の頬に触れていた手は、すがるように肩を掴んでいる。
「……景……」
呟く声は飲み込まれて、言葉にならない。
気付くと陽子はいつしか完全に景麒の腕の中に抱き込まれていた。 望まれるまま応えて、時折波のように襲ってくるものに身をふるわせた。
景麒の腕の中で小さな生き物のようにふるえる度、彼の唇から洩れる吐息が唇を撫ぜるようで、歓喜を感じているのを知る。
いつ止むともしれない繰り返される口接けに溺れかけ、肩を掴んだ手をぎこちなく首筋に絡めると、熱を分け合った唇は頬をかすめて、首筋をたどる。
新たに与えられる感覚に、陽子は閉じ込められた腕の中で大きくふるえた。 思わず弓なりに反った躰を逃すまいとするように、強く抱きしめられる。
無防備な首筋に一瞬灼くような熱を感じて、陽子は息を詰めた。 唐突に熱は去り、肩にわずかな重みを憶える。  乱れた呼気に大きく息をする度、首筋にやわらかな髪が触れた。
陽子は細く息を吐き出しながら、ゆっくりと目を開けた。
思わぬ眩しさに目を細めながら、肩に頬を押し当てたまま大人しくしている景麒の髪に手を触れる。
そっと指で梳いても、景麒は眠りに落ちているかのように反応しない。
陽子は幼子を愛おしむようにして、何度も髪を梳いてやる。
程なくして、お互いの呼吸は調律されたように規則正しいものへと落ち着いた。




景麒は一度飲み込まれかけた深淵に引きずられ、現実との境界を失いかけていた。
声なき悲鳴を言葉に吐き出すこともできず、水に濡れた衣に身を絡め取られるように感情を切り捨てることもできずに、心を引き裂かれてここにいた。
可哀想にと、ひっそりと胸中で囁く。
抱きしめる躰は温かいのに、この肌に沁みてくるものは寒々としている。 孤独というものを、陽子も知っている。 寂しさに自分で自分を抱きしめても、少しも温かくはなかった。
長い金糸の髪を掻きあげて、陽子はそこに唇を寄せる。
「……怖い?」
耳朶に触れるようにして、問いかけを置く。身じろぎ一つ、反応はない。
「私は自分に定められた役目を、裏切ることはしたくない。これは私の意思とは全く関係なく下された運命だったけれど、でももし、いつかそれから解放されたいと思う時が来たとしても、お前を裏切るのは、きっとそれよりずっとつらいと思う……」
戒めが再び、強いものになる。痛いと感じて、陽子はそれに耐えるのに目を閉じる。
「……聞きたくありません」
声は低く、押し殺されている。耳元で響く明度の低い声に、陽子は心臓がふるえるのを感じた。






底の見えない暗き淵に、一体何がある?






わかるのは、そこには裁き手も、導き手も、救い手さえも、何もないのだということ。










Novels  [2]










2006.02