美しい人 [1] 広い堂室に一人、窓辺にもたれて外を見ている。 何か特別興味を引くものがあるわけではない。 盛りの花があるわけでもなく、鳥の塒が見えるわけでもない。 すでに見慣れた日常の景色が、そこに変わりなくあるだけだった。 ただ空だけは秋の気配を纏い、その色が深く澄んだものへとうつろって、雲が夏よりも淡いものへと変じていた。 ふと何かしらの気配を憶えて、陽子は振り向く。 また、気配だけが感じられる。 その気配に引き寄せられるまま、卓子へ目が行った。 そこには、美しく生けられた花枝の姿があった。成程と、ひとりごちる。 飾り付けをしてくれた者に花の名を訊ねたのだが、聞き憶えのない名のため、忘れてしまった。 珍しいことに、その花が慶ではあまり見かけぬこと、またその姿への感想など求められたりしたが、あまりよく憶えていない。 ただ花の名の、響きの清涼さだけが、記憶の余韻として残っていた。 紫陽花のように白い小さな花を鞠玉のようにいくつも枝一杯に咲かせる花で、元々が こうした観賞に向く花ではないらしく、見頃を過ぎるとすぐに花が落ちた。 けれど不思議なことに花は落ちてからもその色を長く持たせた。 そういう種なのだと、 身支度を手伝ってくれた女官が教えてくれた。 黄味を含んだ柔らかい白に、わずかに緑を帯びる清廉とした色は見目良いもので、落ちた花にもまた好ましい風情があった。 陽子は華奢な卓子に歩み寄り、散った花を手に取った。 花片は上質な薄物の生地に似た、すべらかな肌触りがした。 手のひらに載せたまま顔を近づけると、植物らしい緑の匂いがわずかにした。 手の中の花は、特別の香りは持たない。 その様子も陽子には好ましかった。 しばらく花の感触を楽しんで、陽子は花をそっと卓子に戻した。 昨日の黄昏時に、不用意な怪我をした。 庭院を散策していた際、近道をしようと低木の庭木の中に分け入ったところ、刈られたばかりの枝に腕を引っ掛けた。 傷は思ったより深かったものの大事には至らなかった。 当然、周囲の人間からは、心配であったり、呆れであったり、苦言であったりする叱責の数々を頂戴した。 それは主に鈴を筆頭にした、身の回りの世話をしてくれる女官たちからだった。 政務を終えた後のことで、問題の傷は少し深いが、引っかき傷にすぎない。 仙の身では、傷は普通の人間よりも早く治る。まして虚海を渡ってのち、妖魔に追われて過ごした経験のある陽子にとって、この怪我は些細な部類に入るものだった。 大袈裟にすることを陽子は嫌ったが、この事が冢宰や宰輔の耳に届かずに済む筈がなかった。 それでもそれが休日の前夜だということ、命に係るような事態ではなかったことで、側仕えの女性たちと瘍医だけに小言をもらい、何もない休日に至っていた。 自分の不注意が招いたことで騒がれては体裁が悪いという思いが多分にあったので、陽子はその事態に安堵した。 自分の意がある程度受け入れてもらえるという現状にも、満足していた。 なのに訳もなく気が散じて、落ち着かなかった。 最初から、何もせずに休日をすごそうと決めていた。それなのに、気持ちが波立っている。 護衛に影に潜んでいた班渠に頼み、景麒へは無事を伝えてある。 班渠は景麒の短い返答を陽子に伝え、また影に戻った。だから、何も問題はない。 問題など、なかった。 ぽたり、とまた花が落ちる。 散った花特有の、爛熟した色香はない。やっとほころびかけた花の、匂うような静謐さだけがそこにはある。その惜しさに、思わず手のひらに掬い上げてみたくなる、そんな慎ましい様子があった。 花骸であるのに、不思議と生を宿しているかのように見える。 「……あの、主上、よろしいですか……?」 間近で、遠慮がちな女の声がした。 悲鳴を上げることも出来ないほど驚いて、陽子は振り返る。 陽子の驚愕した様子に女は軽く目を瞠り、数歩下がってから、丁寧に礼を取った。 「驚かせてしまい、申し訳ございません。何度もお呼びしたのですが……」 「いや、いい。何か用か、玉葉」 見知った女官の名を口にして、鼓動を早める胸に手をあてた。 よく知る者であり殺気もないのであれば、班渠が影から出てくる道理はない。 陽子自身は使令に親しみを持っているが、多くの人にとって、元は妖魔である使令は本能的に恐れを抱く対象でしかなかった。 だから今の班渠の選択は正しかった。だが陽子は八つ当たりにも似た感情を感じながら、努めて感情を削いだ声で喋ることに神経を向けた。 こんな子供のような癇癪を、人に見せたくなかった。 けれど目の前の女性はすべてを承知している如く、穏やかに微笑んでいた。 気まずさに空咳をすると、玉葉はずっと手にしていたらしい書簡を、陽子へと差し出した。 「誰から?」 受け取りながら訊ねれば、玉葉は微笑を崩さない。 見知った人からなのかと思い、多少の緊張を憶え、丁寧に畳まれた書簡を開いた。 昨日の今日で、心当たる人物は多い。 広げられた紙はどこにでもあるような、けれどきちんとした品で、案外几帳面な性格を表すように、すっきりとした筆跡で記された文書は、ほとんど用件だけの、簡素なものだった。 「何というか……なんでわざわざ手紙なんか」 「さあ、私には。でも、たまにはよろしいのではありませんか?」 やんわりと相槌を打つ玉葉は、とろかすような優しい声音で言う。 お互いの立場と年齢を加味した所でも、玉葉の物腰は角というものとおよそ縁遠い。 彼女との対話は常に、岩を小石にする、水の流れの中の出来事のようだった。 「そうだな。たまには悪くない。じゃあ、本人の所へ行って来るよ」 「承知いたしました、どうぞお気を付けて」 身軽に一歩を踏み出した陽子に、玉葉は子供を見送る母親のように、小さく手を振った 。 Novels [2] 07.02.03 |