終わりのない愛しさを与え(一つの魔法)










行ってはいけないとも、行くなとも、どちらも言うことはできなかった。
状況と立場が、それを赦さなかった。




この心とは、裏腹に       
















叛乱の兆しがある、と耳に入ったのは三月前のことだった。
いよいよ状況が怪しくなり、戦況は一気に泥沼化した。
最初から陽子は自らが矢面に立つことを望んでいたが、宰輔をはじめ、将軍も冢宰もそれを許さなかった。
けれど事態は思わぬ方向に狂い出し、民草に犠牲が出るのは時間の問題となって、誰にも陽子をとめることは出来なくなった。
それでも景麒には、どうしても承伏することが出来なかった。
顔を見れば引き止めずにはいられないことがわかっていたので、二人は顔を合わせぬままに衝立越しに別れた。
景麒の恨み言じみた苦言を苦笑交じりに聞いて、陽子は一言、ごめんとだけ告げて去って行った。




言いようのない怒りが、足元から抜けて行った。
それは陽子に対するものだったのか、自分に対する苛立ちだったのか、判然としない。
ただ、何故と問いたかった。
彼女はきっと、新たな血に濡れるだろう。そうなれば、しばらくは近付くこともできない。
けれど嫌だと思うのは、そんなことではない。
絡みつく血の気配が、まるで禍々しい呪のように彼女に蔽いかぶさっているのを見るのが嫌だった。
近付けない自分を見て、悲しげな目で無理に微笑もうとする彼女を見るのが何よりも耐えがたかった。
麒麟であることを、後悔したことはない。
けれど麒麟であることで、誰かを傷つけることがあるのだとは思いもしなかった。
彼女の身から、血の匂いがする。それが耐えがたく腹立たしい。
穢れが彼女の身を包むことが赦せない。
だが、こればかりはどうにもならない。
彼女自身が心から望んでそうするのではないことがわかっているので、余計に嫌だった。




どのくらいそこに立ち尽くしていたのか、断りを述べる女の声にふと現実に意識を戻す。
入室を許すと重々しい堂扉が静かに開いて、小柄な少女が姿を見せた。
長い髪をつつましく結った少女は、陽子と故郷を同じくする友人でもあった。
「何用か」
景麒は普段より殊更明度の低い声で訊ねる。
鈴は、陽子の傍に仕える女御だった。
仁重殿で彼女の姿を見かけることは非常に珍しい。ないに等しいと言った方が正しいかもしれない。
「失礼ながら、主上から台輔へとお渡しするよう言付かったものがございますので、お届けに参りました」
朝から何度となく側仕えを怯えさせているいつも以上に硬質な態度に鈴は臆する様子は微塵もなく、要件を述べた。
それを聞きやはり、と思った。鈴は景麒の問いに応えると、胸元から小さな紙片を取り出した。
手紙だろうかと思いながら受け取ると、紙の中にわずかなふくらみがあり、触れると小さく硬いものが入っているようだった。
「文ではないんです」
その声に驚いて顔を上げると、鈴は困惑を滲ませながら、半歩後ろへ下がった。
「ご覧になれば、おわかりになります」
控えめにうながされて、景麒は畳まれた紙を開き、息を飲んだ。
真っ白な紙の中から転がり出てきたのは、小さな翡翠の石だった。
薄紫色をした、陽子がとても綺麗だと言った、あの耳墜の片方だった。
重さを感じさせず手のひらに納まったものに、景麒は血の気の引くのを感じながら、呆然とする。
それの意味するものに憤りよりも先に闇が堕ちて来て、あっという間に飲み込まれた。
こうして陽子が叛乱の鎮圧に自ら立つのははじめてのことではなかった。
けれどこんな遺書めいたものを託されたことなど、今まで一度もなかった。
「何か、他にお言葉は?」
自分でも、問う声がひどく冷えているのがわかった。鈴は短くございませんと応え、首を横に振った。
「あの……台輔、まさか陽子が形見分けをしたと、そう思ってらっしゃいますか?」
胸中を見透かした言葉に、景麒は目を瞠って鈴を見返した。
鈴はそれを受け止めて、やはりとでもいいたげな表情で吐息を洩らした。
「そんな大げさなものではないんです。あちらでは、珍しくもない風習なのですけれど、こちらの人は神頼みをしないんですよね。あちらでは、神はこちらほどに確かな存在ではありません。だから余計、皆はすがりたいと思うのでしょうが……」
ひとりごちる鈴に、景麒は要領を得ない。鈴もそれを承知していて、先を続けた。
「自分の努力や意思で為し得ない望みを、あちらの人は祈りに託すんです。説明するのは難しいんですけど……ですから、これは……」
















「これ以上待てない」
「急いても始まりませんよ、状況は限りなく最悪です。これ以上悪くなる余地なんかありませんから」
のんびりと告げられた桓堆の言葉に陽子は浮かせた腰を落とし、溜息を吐いた。
「ここで椅子に縛られるために、わざわざ宮城を抜けてきたんじゃないのに」
「駄々をこねないでください、大事な御身なんですから。ほら、主上もよくご自分で仰ってるじゃないですか、タイミングが大事だって」
自分の言葉に捕われ、思いもかけずぐっと詰まると陽子はそっぽを向いた。
桓堆は子供のような態度に声を立てて笑い、急に間の抜けた声をあげた。
「あれっ? 主上、耳墜の片方をどうされました? 落としたんですか、まさか」
言われて陽子はああと呟き、耳墜のない耳にそっと手を触れた。
「違うよ、これは呪をかけるのに使ったんだ」
「呪とはまた物騒な……そちらにお詳しいとは、初耳ですが」
困惑を隠そうともせず、それでも桓堆の口調はのんびりとした響きを失わない。
自分の友人と二人きりでいる時もこんな調子なのだろうかと、陽子は関係のないことを思ってくつりと笑った。
それが桓堆の目にはどう映ったのか、すぐに知ることになる。
「あの……主上がおかけになった呪というのは……その、いったいどんなものなんですか……?」
目線をわずかにずらし、桓堆は崖の下を覗き込むような顔をして訊ねた。
陽子は桓堆の誤解がおかしく、そのまま笑みをこぼし、ついには声を出して笑ってしまう。
忙しなく目を瞬く桓堆に手を向けて、笑いが落ち着くのを待つように小さく振った。
「桓堆、ご期待に添えなくて残念だが、大したことじゃないんだ。呪というのは大げさだ。ただのおまじないだよ、無事に戻れますようにっていうね。片方を景麒に預けてきただけだ」
「台輔に?」
「そう……あのね、あちらでは対になるものには、お互いに引き合う力があると信じられているんだよ。旅に出たり離れ離れになる時に、再び無事に逢えるようにっていう願いを込めてさ、耳墜とか指輪とか、身につけていられるものが多いかな。まあそういうものを片方ずつ持ってね、お守りにするんだ。結局は気休めみたいなものなんだけど。こっちは神頼みしないっていうけれど私としては、担げる験なら担ぎたいんでね」
「はあ、さようでしたか」
桓堆の理解の範疇にはないのだろう、彼は不思議そうに頷きながら、瞬きを繰り返している。
「意外か、私が自分の身を案じるのが」
「そんなことはありません。とってもいいことですよ、俺は嬉しいですけど」
にこりと微笑まれ、陽子はそれに応えるよう、淡く微笑った。




思いもかけぬ女性らしい雰囲気に、桓堆は一瞬はっとする。
彼女が耳墜をしているのに気付いた時、誰があの頑なな主の心を解いたのだろうと驚いた。
それほどに、かつての陽子は女性らしさをそぎ落とすよう、努めていた。
そんな陽子に変化を与えたのは他ならぬ彼女の半身なのだと、かつて陽子に耳墜をさせようと頑張っていた人が教えてくれた。
内緒だけどと、口止めを一緒にして。
「何が何でも、無事にお帰りいただかねばなりませんね」
「なんだ突然……」
怪訝げに眉をひそめる陽子に、桓堆はにやりと唇を吊り上げる。
「耳墜は、対でなければ意味がないでしょう」
陽子は軽く目を瞠り、そして相好を崩した。
「なるほど、そういう考え方もあるな」
面白そうに呟く陽子は、その姿に似合う、少女の顔をしている。
守らなければと思う。ここで失っていい人ではない。
かつて直属の上司であった浩瀚が、偽王の乱の折に何を思っていたのか今ならわかる気がした。
「じゃ、いきましょうか。しかめつらをなさる必要はありませんよ、こんなこと余裕だって、微笑んでいてくださいね。兵にはそれが何よりですから」
「そうか……そうだな、努力する」
「またそんなことを仰って。ああ……そうだ主上、彼女には何が似合うと思いますか?」
唐突に変じた話題をふられ、陽子はおかしくてこみ上げる笑いを殺しながらも思案をめぐらせた。
「やっぱり真珠か、それとも珊瑚か銀か……いや、違うな、桓堆」
先を歩く陽子は振り返りざま、至極真面目な顔をしてこう言い放った。
「美人は、なんだって似合うものだよ」
にやりとする陽子の顔は、確信的だった。
「主上……それじゃ、参考になりませんよ」
苦虫を噛み潰したようになる桓堆に満足して、陽子はふたたび笑った。
「でもそうだろう? けど寒い所で生まれ育ったからかな、彼女は凛とした冬の花がとても好きだよ」
じきに訪れようとしている季節を口にして、陽子は正面に向き直った。
暁の色の髪が、見事な弧を描いて翻る。
その美しい旗幟を見失うことなど決してあるまいと、桓堆は静粛な気持ちで後に続いた。
















鈴は一度飲み込みかけた言葉を、先程と同じ強さで続けた。
「どうか台輔が持っていてください、陽子が戻ってくるまで」
凛然とした鈴の声に、景麒は手のひらの耳墜を凝視した。
意識するほどの重さもないそれが、唯一彼女と自分を繋いでいるのだと言われて、俄かには信じられなかった。
「些細だけど強い願いなんです、無事に帰れるようにと。これはその証なんです。ですから持っていてください。陽子の約束を、どうか信じてあげてください」
葡萄のように黒い眸が宿すものに、景麒は鈴の陽子の無事を願う心を知る。
「これが……約束と……?」
「ええ、そうです。これは、陽子が台輔にいただいたものでしょう?」
するりと滑り出たそれに、景麒はわずかに動揺する。
すでにそれは親しい者の中では周知のことだったが、あらためて口にされると反応に窮した。
「陽子はこの耳墜をとても大事にしているんですよ。普段は、私たちには触らせてもくれないんですから」
今日は特別なんです、と鈴は微笑した。
彼女はそっとのばした両手で景麒の手を包み込み、小さな耳墜を落とすことのないよう、拳を握らせた。
「台輔……帰りたいと願う場所があることは、とても幸せなことですよね」
黒い目を細めた鈴の笑顔は、とても穏やかなものだった。
主から己へと託されたものを、ようやく景麒は実感する。
この小さな石が、繋ぐものの強さを。




そっと退出する鈴に声をかけることはできなかったが、帰りたいと願う陽子の気持ちを、嬉しく思った。
目を閉じて、手の内にある石にそっと、遠く離れる人の無事を祈った。




届くことを、ただ信じて       
















熱気を孕んだ大気は、灼けた砂のような匂いがした。
恐れとも歓喜とも、おそらくは両方の入り混じった怒号のような喧騒の中を陽子は進んでいた。
剣を持たない手で小さな耳墜に指を触れて、その存在を確かめる。
「え、なんですか? 何か言いましたか!?」
鋭い視線をめぐらせながらも、脇にいる桓堆が一瞬だけこちらに視線を送った。
陽子はそれを認め、小さくうんと応えた。
「早く、帰りたいなって思って」
「そうですね。早く宮城に帰りたいもんです……っ」
応えながら、桓堆は雄雄しく剣を振り下ろす。
「是非とも、そうしたいね」
あざやかに血路を開き、二人は前に進む。
この目は前を見ている。
けれど心はお互い、同じ空の下にいる、遠い人に預けて来ていた。
陽子はもう一度、先程と同じ言葉を口の中で転がした。
桓堆はその囁くような響きだけを心地よく聞いて、蒼い空に血塗れた剣を振り上げた。
天上にも強い風が吹き荒れているのだろう、雲は風に流されて勢いよく刷いたようなその白さを、果てしなく続く空に霞ませていた。
















声は風に載ってつかの間大気を渡り、跡形もなく消えていく。
けれど祈りは、消えることがない。
その願いが叶うまで、そして誰かの元に、届くまでは。
















聞こえるだろうか、同じ空の下にいる人に       
















あなたのことを大切に思ってるけれど、この身を二つに裂くことはできないから。






だから目には見えない心だけを、あなたにより添わせていかせよう。






目には見えない、この、心だけを       
















思えども 身をしわけねば めに見えぬ 心を君に たぐえてぞやる




伊香子 淳行










Novels










タイトルは小沢健二の楽曲『1つの魔法』の副題から。
私はタイトルが決まらないと書き出せない性質なのですが、この作業があまり得意ではありません。楽しくはあるのですが……。
この曲が収められている『Eclectic』はお気に入りの一枚です。










2006.02