蝶の栖 産声をあげるよりも遙か前から、一人でいることは皆無に等しかった。 誰かが傍にいることを不自然だと感じたこともなく、一人の時間を好むことが多かったが、人が傍にいることを、格別意識することもなかった。 他人といることを居心地悪く感じたり、一人でいることに、時折とてつもない不安にかられたりするなど、考えもしないことだった。 彼女に、出会うまでは。 玻璃の温室の中で、花が、つよく薫っていた。 蜜色の陽だまりには、すべてのわだかまりを蕩かす魔力がある。 体温にも似た温もりに包まれ、現実と泡沫をゆっくりと行き来する。 次第にその境が曖昧となり、区別する意識さえ、淡いのなかに溶け込んで消えていく。 そうしてわずかな感覚だけが、きれぎれに残る。 甘い花の匂い、蝶の羽音、高く澄んだ、小鳥の囁き。 一瞬だけ、躰を包む熱が高くなり、深い、濃密な花の薫りを感じた。 けれど意識は泥に埋もれてもがくようにそこから抜け出せず、次第に現実から遠ざかっていく。 眠りに落ち、目覚めるまではわずかの空白でしかない不思議を感じながら、どこまでも引き摺られるような睡魔を振り切って、ぼんやりと目蓋を持ち上げる。 途端、飛び込んでくる光の波に目を眇めた。 緩慢な瞬きを繰り返し、次第に馴染んでくる風景に、ゆっくりと現実を取り戻していく。 陽を含んだやわらかな空気を、蝶の羽根が滑らかに躍らせる。 それは忘れかけていた、濃密な花の薫りをゆるやかに揺り起こしていった。 いまだ不安定な意識に伴なうように、鈍く腕を持ち上げた途端、視界の端にほろほろと白いものがこぼれて落ちた。 雪だろうか、と反射的に思う。 けれどこの暖かさにその連想は、不自然なほど似つかわしくない。 座した膝の上に留まったそれを拾い上げて、間近に確認する。 雪と見紛ったそれは、純白の小さな花片だった。 雫のような小さな花から、ひそやかに甘く、蜜が匂う。 よく馴染んだ花の薫りに他愛のない記憶が鮮やかに蘇って、ようやく意思と現実が結びついた。 軽く腕を持ち上げれば、花がはらはらと落下していく。 浅い眠りに微睡んでいる所に、頭から花を振りかけられたらしかった。 滑稽だが、それ以外の説明がつかない。 そして、そんな事をするのも出来るのも、ただ一人しかいない。 僅かに残る気だるさを降り払い、ゆっくりと立ち上がった。 花が衣を滑り落ちていく静謐な白さが、ひそやかな秘密を囁いているようだった。 風を孕んだ豊かな髪が、鳥の翼のように空に広がる。 何度見てもその鮮やかさに、目を奪われた。 陽を反射する、水面の光。 初夏の木立の柔らかな緑のさざめき。 無音の中に散る、雪のひとひら。 暖かな季節に、一斉につぼみをひらく花々の姿。 幾度繰り返しても色褪せない情景と同じものが、そこにはあった。 長い髪を風に遊ばせて、彼女は草むらの中に腰を下ろしている。 彼女の傍近く、気の置けない者たちだけが知る背中を見つけて知らず安堵の息が洩れた。 奥まった場所ゆえに人の手の入らない野放図な庭は、長閑で、陽の光に満ちていた。 彼女が好む安息の地はどこも人の気配が絶えて久しく、けれど人があった痕跡がどこかに宿っている。 そのことに気付くのに、随分と長い時間を要した。 緩やかな風が背後から吹き抜けて、彼女の髪を揺らす。 吹きぬけていく風に、花の匂いが強くなる。 眼前の丸まっていた背が急に伸びて、彼女は後ろを振り返った。 その唇には、うっすらと笑みが浮かんでいる。 「花の匂いがする」 言葉を発する間に、さらに笑みが深くなる。堪えきれない笑みは語尾をふるわせ、続く声を濁らせた。 予想していた反応だったが、改めて現実のものとなると、景麒の唇からはただ、溜息がこぼれて落ちた。 優美な所作で隣に腰を下ろした景麒からは、よく馴染んだ花の薫りがした。 「あなたは……いつまでも、子供のようなことばかりなさる」 歯切れ悪く切り出された言葉には憮然とした響きがあり、それは皮肉なのだと察せられた。 伝えがたい言葉に更に衣をつけるような彼の言葉は、時に非難の言葉ですらなくなる。 本人に自覚がないのが始末におえなかった。 そつなく微笑もうとして失敗し、それが苦笑になりながらも陽子は半身に目を向けた。 「気に入らないことがあったら、きちんと怒らなきゃ駄目だ。そうすれば二度としないから」 「怒っているわけではありません」 「うん、知ってる」 屈託なく笑えば、それきり会話が途切れた。 景麒との沈黙はそれ自体が会話と変わらないことも多く、陽子は話の接ぎ穂を無理に探すことはしなかった。 時折強く吹く風に、立ちのぼる花の薫りがゆるやかに互いを包み込んだ。 陽子は思い出したように手を伸ばし、景麒の肩に触れた。 「花びらが……」 白い花を摘んだ手首を不意に掴まれ、あっけなく相手の腕の中に収まった。 首裏にほんのかすかに指が触れて、声を殺すのに反射的に身をふるわせた。 「……あなたにも」 彼の声が思うよりも近く、純粋な驚きに息を飲み込む。 顔をあげられずに相手の肩に額を押し当てたまま、息を吐き出す。 咄嗟のことに狼狽を隠し切ることが出来ず、余計な混乱を憶える。 花の薫りが移った指が熱を持った耳朶をかすめ、ゆっくりと頬を伝い下りる。 指はそのまま、動きを止める。 不自然な気息が整うのを、相手は待っていた。 「なぜ、あんなことを?」 留まっていた指は輪郭をなぞり、顎先を跳ね上げられて、視線が絡む。 「ずっと傍にいたけど、起きないから。退屈しのぎだ」 心の内を読まれぬように、低く、抑揚を持たない声で応える。身構えているせいで、自然と睨むような目つきになった。 警戒と受け取るか虚勢と受け取るかは相手次第だったが、おそらく分は悪い。 目交いの景麒の目は、凪いでいる。 けれどその本当の所は、わからない。 それは、賭けのようなもの。結果はいつも、予測できない。 持ち上げた両腕をその背に伸ばして、陽子はお互いの躰を引き合わせた。 重なり合う躰から、鼓動が伝わる。 己とは違う質感を持った背を確かめて、長い髪の中に指を差し入れた。 「何だか、莫迦莫迦しいな」 独り言ち、当惑を浮かべる景麒に、笑みを仄めかす。 微笑を刻んだままの唇で陽子はそのまま景麒の唇に触れた。 口づけの合間に零れた疑問を飲み込んで、ひっそりと胸中で呟く。 こうして、意地を張るのがね、と。 誰の目もなく、こうして触れられる距離にいるのに、わざと距離を生むことが。 それでも、押し留める何かに抗うことは、なぜか難しい。 仕掛けたのは先だったが、優しく繰り返される口づけに、軽い眩暈がした。 温かな血と、互いだけが知る互いと。 どのくらいの時間が流れたのか、ひどく緩慢な動作で離れて、目蓋を持ち上げた途端に眩しさで目がくらんだ。 目に映る人には、僅かな微笑がある。 常にない近さが、これほどもどかしい訳は、何故なのか。 伸ばした指先に細く長い指が絡んで、再び望みのままに引き合う。 やわらかな抱擁に身を委ね、ただひそやかに視線を交わす。 絡み合った指に力がこもって、唇を重ね合う。 角度を変えるたび、やわらかな吐息が唇をなぞって、無意識の内に躰がふるえた。 小さな刺激の繰り返しに、躰の力が次第に抜け落ちていった。 よく馴染んだ花の薫りが、ゆるやかに解き放たれる感覚に伴なって、心を攫っていく。 不意に肩を揺らされて、陶然と目を開く。 伏せた睫毛が瞬きにふるえて、彼は深く、息を吐き出した。 苦さの滲む表情に思い当たることがなく、ぼんやりする思考のまま陽子は小首を傾げた。 赤い髪の一房が、動きに連なって胸元へと流れていった。 流れた髪を掬い上げ、背中へと整えながら、景麒はぽつりと独白した。 「無防備、すぎます」 一拍の間を置いて、陽子はそれが非難なのだとやっと飲み込めた。 「ここには、私たちしかいないのに?」 殊更の考えもなく口をついた言葉に、景麒はわずかに怯んだようだった。 その反応を意外なものに感じながら看過すべきか一瞬迷い、けれど陽子は緊張のとけない景麒を横目に、草を褥に、無造作に身を横たえた。 掴んだ袖を引くと、景麒もわずかな逡巡の後、それに倣った。 身を横たえると背の高い草の影は、少しひやりとしていた。 「こうすればもう、誰にも見つからないだろう」 またも造作なく、陽子は言い放った。 向けられる眼差しが複雑な色を映して、やがてそこにある種の諦めが浮かぶ。 詮無い抵抗だと相手が悟ったのを知り、陽子は微笑った。 青々と茂る草の合間から仰ぎ見る空は眩しく、遠い。 空を渡っていく風が心地よく、当分起き上がれそうになかった。 流れるような仕草で景麒が持ち上げた指の先を、あでやかな色を纏った蝶が行き過ぎていった。 彼を真似て伸ばした両手の指の隙間から、あらたに番いの蝶が見えた。 散り落ちる花びらのように、それでいて確かな力強さを持った羽根がせわしなく羽ばたいていた。 「いつか仰っていたことは、本当でした」 歯切れよい声音に、陽子は夢から覚めるようにして声の主を振り向いた。 伸ばされた手が頬に触れ、ゆるゆるとその手のひらの中に包み込んだ。 陽の熱を宿した手は温かく、とろりと沁み込むような優しさがあった。 急激に意識が下降していくのを憶えて、陽子は重たげに瞬きをした。 そうでもしなければ、今にも子供のように眠りに落ちてしまいそうだった。 そうして昨晩あまり眠っていなかったことを思い出す。 その様子を見やって、ほんの微かに、彼は笑んだようだった。 見上げる空には、もう、蝶の姿は見つからない。 掛布をかけるようにやわらかく抱き寄せて、景麒はあやすように何度か陽子の背を叩いた。 「あとどのくらい、こうしていられるかな……」 背を叩く手が止まって、ゆっくりと気配が動いた。 自分とは質感の違う長い髪が頬をすべり、耳元に低く抑えた声が忍び込んだ。 「いくらでも、お望みのままに」 その一言は魔法の呪文に等しかった。 肩の力が急速に抜けていく心持ちがして、慌てて顔をあげた。 「本当って、何が……?」 景麒は、応えない。応える気がないのは、あきらかだった。 間の悪いことに、もうとても起き上がれそうになかった。 ゆるやかに鈍化する意識は、固執する気力をたやすく奪い去り、それでも片隅に残る疑問にすがって、独り想いを巡らせる。 波間に漂う貝殻のように、岸に近付いては離れ、また打ち寄せては引き戻されるように、応えに近付いては遠ざかっていく。 ふと小さな気配を感じて空を仰ぐと、番いの蝶が行き道を戻り来る様子が目に映った。 ああ、と自然に声が出た。 寝返りを打ち、重い目蓋を閉じる。 息を吐き出して躰の力を抜くと、背中に寄り添う体温を感じた。 指先が、形を記憶しようとするように唇や鼻先をなぞる。 「……景麒……」 多少の息苦しさを感じながら、好きにさせる。 自分もまた、好きにする。それが許されるから。 ほんの一瞬で、陽子は意識の淵を滑り降りていった。 あっけないほどの一瞬で、腕の中の人は意識を手放した。 なぜこんなに無防備に、簡単に自分を他者へ預けてしまえるのだろう、といつも思う。 このある種の拘泥のなさが、時にひどく怖ろしかった。 言えば、杞憂だと、彼女は微笑う。 少し困ったような顔をして。 預けられた躰は小さく温かい。しばらくしてかすかな身じろぎのあと、彼女は鈍い動作で躰を反転させた。 眩しそうに目を瞬いて、不思議そうにこちらを見つめている。 目覚めにはまだ早いと訝ると、眠気を振り切るように目を擦り、赤い目を潤ませている。 「景麒、呼んだ……?」 気だるい声音に、景麒は逡巡する。 けれどひそやかに、彼女の問いに肯定した。 眦にあふれた涙を掬い上げると、陽子は困惑とも微笑ともつかないものを口唇に浮かべ、目を細めた。 潤んだ目に、空から降る、光が滲んで映る。 ややあって、肩をふるわせて、彼女は堪えきれずに笑った。 そっとあわせた額から、漣のような笑い声が身の内に響いて共有する感覚が心地よかった。 ひとしきり笑うと、噛み殺した欠伸がひとつ。 短く限界を呟く声が規則正しい呼吸になるのは、あっという間だった。 今はただ、この眠りを守るのに専念しようと眠る彼女を抱きしめる。 音のない、蝶の羽ばたきの気配をゆったりと感じながら、小さな寝息に耳をすました。 Novels 復帰の第一歩は暗さゼロで! 大体書いて、6年寝かせていたようです。 添削しながら、なぜ放置したかも思い出しました。 とりとめなく、まとめられなかったから。 近いうちに別頁にR版をあげます。 2015.02.15 |