蝶々の休息 王宮にあっても、季節は移ろって巡る。 四季は風の気配や芽吹く植物の姿、または水の匂いの中に色濃い気配を映し込む。 それは下界に比べれば些細な変化だったが、景麒の主である陽子は、その季節の巡りをとてもいとおしんでいた。 取り立てて何かの言葉にすることもなかったが、それらの変化を感じるごとに知らずふわりと微笑んでいる陽子の姿に気付いたのは、いつのことだったかもう、憶えてはいない。 政務に行き詰った午後、少し気分転換をしてくると断ったまま陽子は一向に戻ってくる気配がなかった。 特に急ぎの案件があるでもなく、疲労の濃い横顔に連れ戻すのはためらわれたが、あまりに遅い戻りに苛立ちを憶えずにいるのは難しかった。 少し意識して王気を探れば、思ったより遠くに彼女はいるらしかった。 一時期、王宮の地図を自ら作ることに凝った王は、めったに人の入らぬような廃園や、忘れ去られた奥宮に恐ろしいほど精通している。 そうして雲隠れした王を、景麒以外の者が見つけるのはまず不可能だった。 今も多分、そうした場所のひとつに身を落ち着けているに違いなかった。 彼女の気配が一所に縫い留められたように、全く動く様子がなかったから。 その遠さに、景麒は憶測をめぐらせながら、あそこだろうか、それともあちらだろうかと思う。 景麒には判然としない彼女の行動に、いつも面白いように引っ掻き回された。 王気が動かないことに、景麒はひとつの可能性にぶつかった。 もしやと思い、嘆息する。 王座に着く前の放浪の名残か、陽子は臥所以外の場所で眠りに落ちることを気にしない。 もしそうならばと、景麒は椅子から身を起こした。 たとえ見咎める者がいないとしても、気付いてしまえば景麒には捨て置くことができなかった。 堂室を出て、王気の導くままにゆったりと歩を進める。 見失うことなどありはしないのだから、焦る必要はなかった。 第一に、陽子はいまだそこから動かずにいるのだから。 歩をすすめるうちにすれ違う人の数が少なくなり、ついには人と会うことがなくなった。 今はもう忘れ去られた場所に、景麒はそっと足を踏み入れる。 閉じられた宮は最低限の手入れはされているが、そこに流れる空気は湿気を含み、どこか埃っぽかった。 回廊を逸れ、もとは小奇麗な庭院であったろう、草地に下りる。 草は膝よりも長くのびて、風に泳いでいた。 そしてそこには、一本の細い『道』が出来ていた。 特別の意識もなく視線を巡らせると、緑の草むらの中から鮮やかな色が飛び込んできた。 こんな所に花がと思ったのと同時に、それが探していた主の髪だとわかる。 彼女は草地に腰をおろし、ほつれた髪をそのままに、風にそよがせていた。 その後ろ姿に、景麒は自分の予測が外れていたことを知る。 そして思わず、足を止めた。 こんなふうにして彼女が雲隠れをする理由を、一度苛立ちのままに質したことがある。 陽子は眼差しをそらし、ただ一言「一人になりたい」と消え入るように呟いた。 見てはならない奈落を覗き込んだと、その時思った。 慰めを口にすることもできず、何も、返すことができなかった。 そしてそれ以来、景麒は理由なしに陽子を連れ戻すことが出来なくなった。 理由とは、言い訳でもある。 その言い訳を失って景麒は陽子の後ろ姿に圧倒されるように立ち尽くした。 小さな庭は、まるで奥津城のように森閑としている。 人というものの気配がひとつもないここは、まるで王宮の中ではないかのようだった、その在り様も、風情も何もかも。だからこそ、陽子はここを選ぶのだろう。 前触れもなく、突然陽子が振り返った。 景麒はぎくりとし、反射的に身を硬くした。 「いつまでそこで、そうしてるつもりだ?」 「……お気付きで?」 「ここは人の気配がないから、すぐにわかるよ。そんなとこに立ってないで、こっちにきたら? ここの池には魚がいるんだ。赤くて可愛いよ、小さくてまるで金魚みたいなんだよ」 笑って手招きをする陽子に景麒はほっと息を吐き、彼女が作った『道』に足を踏み入れた。 さくりと草を踏むたびに、生ぬるい緑の匂いが立ちのぼり、 今、季節は夏なのだと改めて思う。 こうして常春の王宮で人が四季の変化に鈍くなっても、決してそれを忘れえぬ存在もあるのだと気付かされ、少し新鮮な気がした。 「蓮の花がきれいだね。卵色の花なんてはじめてみた。珍しいの?」 ぽつりと呟いて、陽子は景麒を仰ぎ見た。 「いえ、特に珍しいわけでは」 「そうなんだ。そういえば蓮の花は咲く時に音がするっていうけど、お前は聞いたことはある? どんな音がするの?」 「早起きして、ご自分で確かめられるとよいでしょう。かすかな音です」 「……それは、応えとしては五十点だな。まあ努力はしてみよう」 景麒の嫌味を軽く非難し、陽子は景麒を隣に座らせた。 陽子がいるのは池のほとりだった。 ぐるりと池を囲み、鑑賞にも堪えうるよう配置された岩の様相は見事だが、栄枯を映しすっかり苔生していた。 戯れに手を触れて、陽子は苔の感触を楽しんでいる。 「蓮っていえば、この間、浩瀚がお酒を飲むのに使うことがあるって教えてくれたよ。風雅な遊びだと言ってたけど、邪魔が入って肝心な所を聞きそびれたな……」 陽子の呟きに、景麒はああと呟いた。 「碧筒杯(へきとうはい)のことでございましょう。蓮の葉の茎につながる真上に穴をあけ、そこから酒を注いで飲みます」 「なるほど……それは風流だな、蓮の香を酒に移すのか。涼しげでよいね、それなら飲んでみたいな」 そう言って、存外に幼い笑顔で陽子は笑った。 少女のまま時を止めた陽子は、あまり酒を好まない。 あちらでは成人するまで飲酒することを法で禁じられているので、酒自体に抵抗を感じるのだと以前陽子は言った。 こちらの習慣と立場上口にしないわけにもいかず、かといって当然量を飲めるわけではない陽子は、いつも苦笑まじりに杯を手にしていた。 「季節としてもちょうどよい頃です。暑気払いの意もございますゆえ」 「そうなんだ、いいことを聞いた。ありがとう」 呼吸するように自然と礼を口にする陽子に、景麒はいつも一瞬はっとして、いえと呟く。 相手が誰であれ、彼女は感謝の言葉を口にする。 はじめこそそれを諫めていたが、今ではその言葉が心地よく響くことに気付いた。 いつしか注意をしなくなったことに、陽子が何か言うことはなかった。 ただ笑みを浮かべて、陽子は以前と変わらず感謝を口にする。 それが景麒には、心地よかった。 「さて……じゃあ戻ろうか。ここにくると、つい時間を忘れていけない」 言いながら、いたずらを見つかった子供のような顔をして陽子は景麒の顔を覗き込んだ。 そうして彼女はいつもまっすぐに視線を向ける。 つらぬかれたようにそらすこともできない強さに、時折同じ強さでその眸を見返してしまうことがあった。 彼女の緑の虹彩は、強い光を受けた時、淡い金の色を生み出すことがあるのだと、そうでなければ知ることなどなかっただろうと思う。 不思議そうに向けられる緑の双眸に、景麒は何でもないと応えようとした口を唐突に、やわらかな指で封じられた。 「静かに」 自らの唇にも指をあて、囁くように言った陽子の顔は真剣だった。 突然のことに戸惑いながらも、息をひそめる陽子に景麒は大人しく従った。 彼女の視線は何を追っているのか、右へ行ったり左に行ったりとしている。 使令に頼るまでもなく、穢れた気配は何一つない。けれど陽子は息を殺すようにして、気を張り詰めていた。 すっと彼女が息を飲み込んだ時、傍に小さな風の気配を感じた。 声を封じていた指が離れ、陽子が追う視線の先にあったものに、景麒は目を細める。 「蝶……?」 「うん。実はこれを待ってて遅くなったようなもので……」 ふわりと微笑む陽子に、景麒は己が声を封じられた訳を理解できなかった。 彼女は『動くな』ではなく『静かに』と言って喋ることを禁じた。その意味が、見えてこない。 「景麒も聞こえた?」 景麒はそれに眉根をよせ、首を傾げた。 陽子は少しきょとんとして、それから声を立てて笑った。 「そうかごめん、蝶の羽音だよ。聞こえた?」 「聞こえ……ましたが……」 意外な応えに、困惑を隠せなかった。 景麒にとって蝶の羽音など珍しいものではなく、蝶そのものではなく、その羽音を聞きたかったという陽子が不思議だった。 「桂桂が教えてくれたんだ。蝶は同じ道を行ったり来たりするから、ずっと同じ所で待っていれば、また見ることが出来るんだって」 「蝶道ですね」 「そう、それ。蝶の羽音が耳に聞こえるものだなんて、つい最近まで知らなかったんだ。なんだかんだ言っても田舎暮らしではなかったし、雑多な音にまぎれてしまうんだろうな、あんな小さな音は」 言って、自らの膝を抱え込むようにして陽子は独白する。 「音というより気配だものな。でもその気配も音も、ここでは感じ取ることができる……こんな静けさは、昔は知らなかったよ。何だかくすぐったい感じがして不思議なんだ。そういえば、さっきの蝶はなんていうかお前は知っている?」 問われて、通り過ぎた蝶の姿を思い浮かべる。 黒い羽根の中に、緑を溶かし込んだ青さを載せていたように見えた。 「名前までは。揚羽の仲間かと存じます。おそらく楠がこの庭のどこかにあるのでしょう」 「ふーん、楠って聞いたことあるな」 「木材として使用したり、衣類の忌避剤に用いたりする種もありますが」 「ああ、樟脳のこと? へえ、知らなかったなあ、お前はいろんなことを知っているね。もっとも私が物を知らなさ過ぎるだけだけど」 かげりのない笑顔で明るく笑う陽子は、いつも景麒が見ている彼女と違うように感じた。 どこがと問われれば、景麒には言葉にするのは難しい。ただ祥瓊や鈴といる時のようなくつろいだ感じと、どことなく似ていると思った。 「揚羽といえば、この間夜に蝶を見たよ。真っ黒な羽で、下の方にだけ赤い斑点があってね、夜なのに珍しいなあって思ったよ」 「主上、それは蝶ではありません、蛾です」 「……蛾? あんなに綺麗なのに? 嘘だろう」 「嘘ではありません。蝶は、気温が下がると飛べないですから」 陽子は一瞬目を瞠り、ついで握った拳を口元にあてるとうつむいて何やら考え込んでしまった。 急に静かになり、景麒は取り残されたような気がしてうつむく陽子の横顔に目を落とした。 その目は何を見ているわけではないのだろう、自らの中に応えを探す人のそれは、ただ真剣そのものだった。 政務に集中する陽子を見慣れた目には、奇妙な違和感を感じずにはいられなかった。 もがくように応えを得ようとするのと違い、納得できないことに釈然としないような、あるいはどこか意地を張っているかのようだった。 「お前の言うとおりかも……昔理科で習ったの思い出したよ。蝶って変温動物なんだよね。でも蛾っぽくなかったから、何かの蝶に擬態しているのかな、きっと。しかし意外な感じがするな、そういうのも教養のひとつなのか?」 言葉に含ませたものの通りの表情をして、陽子は目をすがめた。 関心と反発心と、あまりに無防備な様子にそれが何であるのか景麒にはだんだんとわかってきた。 「まるで、子供のようですね」 「……え……」 瞠られた眸に、思わず息を飲み込んだ。 いつも、あとで気付くのだ。 言うつもりなどなかったのに、思わずこぼれた言葉は無神経にもほどがあるとすぐに自覚できた。 けれど口に膠がはりついたように弁解の言葉を言うことができなかった。 この動揺が、顔に出ないことが幸いかはわからない。地についた手が、知らず草を握りしめていた。 「子供か……子供ね……いいだろう、今くらいは子供でいても」 最初から景麒の動揺に気付いていて、陽子はくすりと笑って見せた。 それは穏やかな、大人の女性の微笑みだった。 馴染みの深いその表情に、やっと失言の動揺から抜け出して景麒は目を伏せた。 謝罪を口にしようとして、やめる。この場にはたぶん、相応しくないから。 王宮にいながら王という肩書きを一時忘れるための場所に、己は今、いることを許されている。 この世界において、陽子にとっては現実そのものであろう己を。 だから、その言葉は言うべきではない。 「ひょっとして、桂桂に蝶道のことを教えたのは景麒?」 「もしかしたら、そうやもしれません。確かに以前そのようなことがありました。今の主上のように、蝶を探していた折に居合わせて……」 桂桂も、ありがとうと言った。 はにかんだ、嬉しそうな笑顔が印象に残っている。 「そうだ、さっきの応えをまだ聞いてなかった。なぜそんなに蝶にくわしいの? 秘密?」 「別に秘密ではありません。女仙の中に蝶を好んだ者がいて、教えてくれたのです」 「ふうん、なんかいいね、そういうの。幸せな記憶だよね」 「……なぜ? 幸せ、ですか……?」 不思議そうに呟いた景麒に、陽子はだってそうだろう、としたり顔で言った。 「教えられたことを思い出す度に、誰がどんなふうに自分にそれを教えてくれたのか、一緒に思い出すだろう? あの時、こうしてあの人が教えてくれたんだって、そういうふうに思い出すのはいい思い出だとは思わない?」 逆に問い返されて、突如子供の日のことが、鮮やかに甦った。 ふてくされる自分に、少女の面影を残す女仙が鈴を鳴らすような声で笑った。 そう言って微笑みながら手を引いてくれた女仙の手の優しさを、憶えている。 他愛ないやりとりの中に眠る温かさを、彼女はよく知っているのだろう。 こんなふうにして思い返すのは、陽子にとってどんな出来事か、景麒に知る術はない。 けれど、彼女は幸せなことだと言った。 そういうふうに思える思い出であることが、幸いだと思えた。 「この時期は王宮のどこで一番たくさんの種類の蝶が見られるかな」 「年間を通して、玻璃の温室では種類を多く見ることができます。あそこは暖かいですから」 「言われてみれば……意識したことがないから気付かなかったな。これは新しい楽しみができたな、うん」 「よきことかと。女御たちも、主上を見つけやすくなりましょう」 「お前なあ……その一言が五十点なんだぞ」 困ったように苦笑した陽子は、とさりと草の上に躰を投げ出した。 仰向けに寝転んで、大きく深呼吸をすると、静かに目を閉じてしまう。 沈黙が繭となって彼女を包んでしまうと、景麒は見るともなく、空を見上げた。 物を知らないのは、一体どちらだろう。 陽子が言葉にするより易しく知っていることを、言葉にされてはじめて気付く。 互いが、互いの知らないことばかりを知っている。 出会わずにいたら、きっと知らずに一生を終えるのだろう。 だとしたら、ずっと長く共にあれば、互いが知らないことなどいつかなくなるだろうか。 そらせた首を戻し、隣に身を横たえた主を見つめた。 赤い髪が緑の中に鮮やかに散って、思わず触れて確かめたくなる。 確かにそこに、存在しているものなのかと。 王気を感じられる身でなければ、そうしたかもしれなかった。 指先がほんの少しだけふるえて、その衝動を蓋をするようにしまい込んだ。 ふいに、閉じられた目蓋がゆっくりと開かれる。 清んだ双眸が空の青さを映し、光を纏うと淡い金色を生み出して揺れた。 そっと上げられた右手が空に向かってのばされて、陽子はふわりと微笑う。 耳を澄ませば、軽く小さな音が、風の中を泳いでくる。 「景麒の言ったとおりだったね。ほら、見て……」 陽子の指先を、その羽根に青い色を宿した蝶が行過ぎていった。 二人はそろって、蝶の行く先に目を向けた。 行きつ戻りつ、どこへ行くかはわからないけれど、いつかはどこかにたどりつくのだろう、と。 Novels 蝶は生き物もモチーフも、どちらも好きです。全く詳しくはありませんが。 黒地に青の色を持つのはアオスジアゲハ、黒地に赤の斑点を持つのはジャコウアゲハに擬態したアゲハモドキです。どちらも暖かい時期の蝶です。 象鼻杯は大阪の万博記念公園で、花の時期に楽しめるそう。 朝早くて先着順だそうですが、朝からお酒なんですね……。 けれど暑い夏ですから、いっそ清々しい気もします。 一度試してみたいなあとは思っているのですが、清酒でなくて濁り酒でやるととても美味しいそうですよ。清酒だと、青い味がするようで。 寝転んで茎を加え、酒を注いで飲む姿が象の鼻のようなので、象鼻杯と言います。なんだか可愛らしいですね。 追記(2018.11)このお話は『中空の風景』と繋がってます。 2006.02 |