安心毛布










すべての準備を整えて、景麒は抽斗から小刀を取り出した。
身を守るでも誰かを傷つけるでもなく、紙を裁断するために、だった。
普段からあまり刃物には馴染みがなく、手にするたびに何となしに違和感を感じるが不快なわけではない。
それでもなぜか気にかかるのは、冴え冴えとしたその鋭さを、時にお前の言葉のようだと主から揶揄されることが原因なのだろうと思う。
小さく嘆息し、景麒は雑念を頭から追い払う。鞘から刀身を引き抜くと、慎重に刃先を紙に置いた。
















浩瀚から景麒にと、書類を預かった。
片手で持つには重く、かといって人に助けを求める量ではない。
すれ違う女官たちの手伝いの手を幾度となく断りながら、陽子はひとり仁重殿の廊下を急いでいた。
当初たいした量ではないとたかをくくっていたものの、疲労というものを綺麗に失念していた。
歩くうちに紙の重みにたえかねた腕がだるくなり、一刻も早くこの書類をどこかに置いてしまいたいという思いから、自然と歩が早くなる。 
「浩瀚め……人を使うのが本当に上手いんだから」
安請け合いした自分を棚上げにして、今更ながら陽子は恨めし気に呟く。
しかし浩瀚は最初、当然のように手伝いの官をつけることを提案していた。
それをあっさりと断ったのは、他ならぬ陽子自身だった。




ずり落ちそうになる書類を抱え直し、目指していた堂扉の前でようやく歩を止めた。
そこで、陽子はどうしたものかと思った。両手がふさがっているので書類を一度床に置くしかないのだが、それが煩わしい。
少々礼儀に反するが、堂扉を開けながら断りを述べればよいのだと都合よく納得した。
場合によっては中の人間を驚かすことにもなりかねないが、王気を感じる景麒ならば問題はないと判断したのだ。
「っと、重いな……」
片肘で押すものの、堂扉はわずかにしか動かない。
陽子は足に力を込めると、勢いをつけて堂扉に体当たりをした。
思いの他勇み足になったせいで、堂扉は派手な音を立て開かれた。
勢いのついた躰は焦る気持ちとは裏腹に、止めようもなく堂室に転がり込んでしまう。
「ごめん! 驚かせたか景麒、ちょっと目測を誤って……」
素早く謝罪を口にしながら顔をあげれば、当の景麒は椅子を鳴らし、立ち上がった所だった。
背で堂扉を閉め、咄嗟に身構えた陽子だったが、景麒は左手を右手で庇うように握りながら、陽子を振り向いた。
「主上、いったい何をなさっておいでか……!」
咎めだてをする声に、いつもの覇気がなかった。
眉間に寄せられた皺も、まるで苦痛を堪えているかのように見えた。
何かおかしいと感じながら、陽子は謝罪を口にする。
「すまない、こんなつもりじゃなかったんだが……」
景麒に歩み寄ろうとし、陽子は唐突に書類を放り出した。
乾いた音を立て、書類は床一面に散る。
それに目も止めず、陽子は駆けるようにして景麒の傍に行った。
陽子から避けるようにした景麒の手からは、赤い液体が滴り落ちた。
「見せてみろ、傷は深いのか? すまない、私のせいだ」
「大丈夫です、たいしたことは……」
「いいから見せるんだ!」
強引に手首を掴むと、庇うようにした右手を引き剥がして、陽子は傷を目の当たりにする。
「大丈夫……少し深いようだけど、綺麗な切り口だ。あっちで手当てをしよう」
掴んだ手を離さぬまま、陽子は榻へとうながした。有無を言わせぬ気迫に負け、景麒は大人しく陽子の言うがままに従う。
陽子は手持ちの手巾に水差しの水を含ませると、手際よく流れた血を拭き、傷を清めた。
「……申し訳、ありません……」
「それはこっちの科白だ。まさか刃物を使っているなんて思わなかったから、本当に悪いことをした。すまない」
手早く止血の布を巻きつけながら、陽子は改めて謝罪を口にした。
「もうよろしいですから……お手をわずらわせ……」
触れるほどに近い目の前で広げた手で、視界を遮られる。
突然のことに言葉を失ったのを確認すると、陽子は手を下ろし、小さく首を振った。
「お願いだから、私の謝罪をなかったことにしないでくれ。私は大丈夫だよ、私にとって血は穢れではないんだから、そんな顔をするな」
うすく微笑むと、景麒は珍しく茫然としていた。
陽子の言葉をまるで異国の歌を耳にしたような面持ちで聞いて、眼差しを伏せる。
自分の身が麒麟であり、陽子とは違うのだということを失念していたのだと、その様子からうかがい知れた。
殊勝な景麒の様子を、それで陽子も納得した。そして平静を装っているが、実はそうではないことにも。
目交いの人はまさしく麒麟なのだと、陽子は今更ながら思い知る。
たったこれだけの血に酔って、それでも他者の身を案ずることを忘れない。
この心を他に何と言えばいいのか、陽子はわからなかった。
「主上、お手に……」
言われて、自らの手に目を落とす。先程のやり取りの中でついたのだろう、まだ乾ききらない血が一滴、手のひらについていた。
ぼんやりとしていた陽子は、何の気なしにそれを口元に運んだ。
景麒が驚いて大きく目を瞠ったので自分が何をしたのか気付き、あっと声をあげた。
口中にかすかに鉄錆びに似た味がして、すぐに消える。
硬直する景麒に、陽子は気まずくてすぐに手のひらを手巾で拭いた。
「ぼうっとしてたから、これはちょっとした……不慮の事故だ、不慮の事故。わりとこの癖を持った者は多いんだが……だからそんなに驚くな! わざとじゃないんだ、わざとじゃ!」
言い訳するうちに妙な動悸がして、見る間に頬が熱くなる。
自分が真っ赤になっているのとは裏腹に、蝋のように白い頬のまま、景麒はじっとこちらを見返していた。
景麒にすれば、目の当たりにしただけでも身を苛むものを平気で口にした陽子は、奇異に映っただろう。
陽子とて、自分が何をしたのか気付いて驚愕した。
小さな傷口に唇をあてるのは、生き物にとって本能だと言えるだろう。
けれど陽子が口にしたそれは、自らの血ではない。
ぼんやりとする意識の中で、陽子はそのことを無意識にどこかで理解していたように思う。
それがわかるから、いっそう動揺が大きかった。
「六太くんのせいだ……」
「延麒のせい……とは?」
問われて、ぐっと応えにつまった。
気分が悪いのだろう、少し潤んだ目を向けられて、陽子は意地を張る気概をそがれてしまう。
応えるにも勇気がいるが、目をそらすにも、相当の気力が必要だった。
陽子は観念し、相当の勇気をふるうと、重い口を開いた。
「前にね、六太くんが言ったんだよ。麒麟は、うまいらしいぞって……今、急にそれを思い出して……あっ、あの瞬間に、それを考えてたわけじゃないけど! 思い出したら何か……」
言い訳をしながら、目が潤んできたので喋るのをやめた。
それ以上続けると、情けなくて泣いてしまいそうな気がしたので。
うつむいて、衣の裾をぎゅっと握りしめた。
陽子にとっては何より重い沈黙ののちに、頭上を大きな溜息が通り過ぎた。
「麒麟の味など、知ってなんとします? 延麒もまた、詮のないことを……」
呆れの滲んだそれは、六太に向けられたもの。
存外にくだらないと言い捨てそっと目を蔽うと、景麒はまた溜息を吐き出した。
麒麟を喰らうのは、その役目を解かれた自らの使令のみ。
契約の代償として、麒麟はその死後に使令として使役した妖魔にその血肉を与える。
「……有史以来、なかったんだろうか……妖魔以外のものが、麒麟を屠るというのは」
「……主上、ご自分が一体何を仰っているか、おわかりか?」
蔽った手をそのままに、景麒はくぐもった声で非難をあらわにする。
陽子は景麒の視線から開放されたことに落ち着いて、徐々に平静を取り戻しつつあった。
残酷なことを言っている自覚はあったが、長い間の疑問でもあったので一度口にしてしまうと止められなかった。
「向こうのお伽話ではよくある話なんだよ。霊獣の血肉を口にするとどんな病も治るとか、永遠の命を授かるとか。でもこちらでは神籍に入ってしまえば叶うことだものな。もちろん、代償は大きいよ、死にたくても決して死ぬことができないとかさ。自分の意思とは関係なく、ずっと生き続けなければいけないっていうのは……」
喋りすぎたと感じ、ふっと言葉を飲み込んだ。
景麒はまだ目を蔽ったままで、話を途切れさせた陽子にわずかに身じろぎをしただけだった。
「ごめん、冗談だ。そんなことできるわけないだろう、たかだかそんなことのために、情が移ったものを食べるなんてできるわけがない」
「『そんなこと』ではないでしょう……」
手の蔽いを外し、景麒は気だるげにうつむけた顔をあげた。
陽子を見る景麒の双眸は、眩しいものを見るよう.に細められている。
「そんなことだろう。相手の命が救われるというなら自分の身くらい進んでくれてやると思うけど、逆は無理に決まってる。絶対に無理だ、そんなことはできない」
「主上……それを今、なぜ私に仰いますか……」
「あのな……お前に言わないで誰に言うんだ? そんなの何の意味もないだろうが。大丈夫か? いいや大丈夫な訳がないな。いいから休め」
「平気です。そんな大げさなことではありません」
血の色の褪めた顔にその一瞬、強い生気が現われたので陽子は驚いた。
先程の景麒のように額に手をあてて、盛大な溜息をつく。
当人が何と言おうと、休ませなくてはいけないのは明白だった。
言った所で聞く耳を持たないのはわかりきっている。かといって、正論で責めるのも原因を作った身としては気が引けた。
ならばと、陽子は思案する。
「仕方がない……」
いつになく真剣みを帯びた声の響きに、景麒は眉をひそめる。
ぽつりと呟いた陽子は、抗いようのない強い視線で景麒のそれを捉えた。
追いつめられた獲物のように、景麒はじっと身を硬くする。
陽子は少しづつ、間合いを狭めていった。
そしてそれは、一瞬の出来事だった。
突然景麒に向かって腕をのばした陽子は自らの腕の中に景麒を抱き込むと、その力のまま、景麒を榻に組み伏せた。
「主上、何を……っ!」
「よし、頭は打ってないな? 口で言ったって聞かないからな、このまま少し横になっていなさい」
笑みを含み、陽子はあっさりと言い捨てた。
言葉で説得できないなら、行動に出てしまうのが一番早い。
弱っているのだから組み伏せてしまえば、起き上がる気力はないだろうと陽子は踏んだのだ。
「やっぱりちゃんと手当てした方がいいし、診てもらった方がいい。ちょっと待ってて……」
人を呼びにやろうと起こしかけた躰を、突然強い力で引き戻された。
わずかの隙にあっけなく彼の腕の中に捉われた陽子は、身動きがとれなくなる。
どこにこんな力が残っていたのかと驚く一方で、陽子は自らの置かれた状況に慌てた。
「なん……景麒、離せ! これじゃ動けない!」
「嫌です」
即答されて、陽子は二の句が告げない。
景麒のこの行動の、真意が見えない。抱きしめる腕は窮屈なものではなかったが、自由を許さないものだった。
「……ねえ、履が脱げたんだけど……」
「歩かなければよろしい」
「……あ、書類……そうだ書類を床に撒いたままだった。拾わなきゃいけないだろう、浩瀚からお前にって預かってきた大事な書類なんだから」
「誰かに、拾わせればよろしいでしょう」
誰かって誰だ、と陽子は小さく舌打ちする。
この状況で人を呼ばれては、明日にはどんな噂が宮城内を駆け巡るのか、想像しただけて頭が痛かった。
抱き込まれた腕の中で、陽子は諦めに溜息を吐く。
「……わかった、歩かないし拾わないないから、頼むから言うことを聞いてくれ。お願いだから大人しく休んでくれ。自分がどんな顔色をしてるのかわかってるのか? まったく……なんでこんなことを言わないといけないんだ……」
目を合わせていたら、とても言えない科白だと思った。けれど、この状況で言うにもかなり気恥ずかしく、また頬が熱をおびるのがわかった。
溜息とともに、陽子は唯一自由を許された片腕で、自分の身を捉える景麒の腕に触れた。
驚いたように、びくりとしたのが布越しに伝わってくる。落ち着かせようとして陽子はそっと、あやすように何度もその腕を叩いた。
次第にあの瞬間に走った硬直が溶けていくのがわかり、長い時間をかけてゆっくりと、肩を抱いた腕がゆるんでいくのがわかった。
束縛から開放された陽子は慎重に上肢を起こし、腕を軸にして躰を榻の余白へ移動させた。
そうしてやっと、景麒と目を合わせることになる。熱に浮かされたようにどこかぼんやりとした目で、景麒は陽子を見上げていた。
かける言葉に迷い、なんとなく視線を外すこともためらわれた。
景麒は瞬きもせず、ひたとこちらを見ている。
陽子はそのすがるような眼差しに、何か琴線に触れるものを感じた。
「……気分は悪い?」
「あまり、よくはありません……」
「頭痛はする? 気持ち悪くはない?」
次々と畳みかけられ、景麒はやっと瞬きをすると、細く息を吐き出した。
返事はないがようやく気が抜けたらしく、今の状態を言葉にするのも億劫だというのがたやすく察せられた。
「何も、心配しなくていい」
陽子はそっと、彼の上に言葉を落とした。
「どこにも行かないから」
頬にかかる髪を、指先で払ってやる。
できるだけ優しい声音で、囁きを落とした。
食い入るように向けられる眸に小さく頷いて、彼の肩に手を触れた。
その手をそっとつかんだ景麒の手は、氷のように冷たかった。
その冷たさに陽子の唇はうっすらと開き、声にならない吐息がこぼれた。
「ちゃんとここにいるから……」
囁きは呪文となって、景麒の意識を蔽う。
時間をかけてゆっくりと目蓋が閉じられると、景麒は意識を手放した。
陽子は冷たい手をほどいて、熱を移すように、その手を両手で包み込む。
可哀相なほど冷えた手を、離すことはできなかった。




躰と心は分かち難く結ばれていて、どちらの変調にも、すぐに悪い方へと引きずられていく。
病身の人間が抱く感情は、陽子にも憶えがある。
長い睫毛が落とす影を見つめて、陽子はそっと、笑みを浮かべる。






       何でも言うくせに、本心は飲み込むんだ。






行かないで、傍にいて。と。






ただ一言だけは、言葉にされない。
あっという間に不安に蝕まれ、自らへと陽子を引き寄せた手は、まだ冷たい。
床に転がった履に目をやると、もう片方をあっさりと脱ぎ捨てた。
素足に触れる床は、ひやりと冷たい。
本当は、裸足でだってどこへでも行けるけれど。
















血の味は、忘れる。
情の移った生き物を、食べることなどできない。たとえどんな理由があったとしても。
それよりも、もっと単純な感情がある。
もうきっと、離れることはできないと思う。
この冷たい手を大切だと、そう思うから。










Novels










タイトルはスヌーピーで有名なピーナッツのキャラクター、ライナスのお気に入りの毛布の俗称から。
それがないと安心できない、逆にそれさえあれば満ち足りる、というもの。










2006.02